石碑

土佐坊昌俊邸址(小町)

日蓮上人辻説法址の道をまっすぐ鶴岡八幡宮方面に小町大路を進み、宝戒寺の手前左にこの石碑がある。 義経を許さなかった頼朝が義経を追討を決意し、討伐の任命を多くのものは辞退したが、進んで引き受けたとされる土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)がこ…

若宮大路幕府旧跡(小町)

宇津宮稲荷から小道を八幡宮の方向に300メートルほど進むと、「若宮大路幕府跡」の石碑がある。 若宮大路幕府は親王屋敷とも呼ばれ、4代将軍藤原頼経の1236年から9代将軍守邦(もりくに)親王の1333年の幕府滅亡まで政治が行われた所。 しかし…

宇津宮辻子幕府旧跡(小町)

二の鳥居から八幡宮の方に300メートルほど進み、右の鎌倉彫会館脇の小道を進むと宇津宮稲荷がありその隣に石碑がある。 尼将軍政子が亡くなった時、藤原頼経(よりつね)が1226年から1236年まで征治を行った所で古瀬戸や常滑焼の壺の破片などが多…

東御門(雪ノ下)

東御門(ひがしみかど)は大蔵幕府の東の門のあった所とされる。 この石碑は雪ノ下にあるが、二階堂との堺に近いところにある。 この北にやぐらがあり、たくさんの五輪塔があった、 それらを整理して一か所に集めたのが東御門やぐらであるが、 現在は民家の…

西御門(雪ノ下)

鶴岡八幡宮の東にある横浜国立大学の付属小学校の東脇にこの石碑がある。 西御門(にしみかど)は地名にもなっているが、この石碑は雪ノ下というところにある。西御門という住所はこの少し北にある。 大蔵幕府の西の門があった所。

大蔵幕府旧跡(雪ノ下)

鶴岡八幡宮の境内を抜け東側の清泉小学校のあたりが大倉(蔵)幕府の中心地であったといわれる。 源頼朝が1180年に鎌倉に入って寝殿造の屋敷をつくり、ここに侍所(さむらいどころ)、公文所(くもんじょ)、問注所(もんちゅうじょ)などの役所をつくっ…

太平寺跡(西御門)

来迎寺の脇にこの石碑が建っている。 源頼朝の命を助けた池禅尼(いけぜんに)の姪を開山として建てたと伝えられる太平寺という尼寺がこのあたりにありました。 本尊は安房の里見義弘が鎌倉に攻め込んだ際、奪って安房に持ち去ったが、今は鎌倉に戻り、 現在…

染屋太郎大夫時忠邸阯(長谷)

染屋太郎時忠(そめやたろうときただ)とはどのような人であったかは調べてみると、由比長者ともいわれた信仰に厚い人であったらしい。 この石碑は江ノ電の長谷駅から海と反対方向に少し進み信号のあるところを右に進む、すなわち鎌倉方面に進むと鎌倉文学館…

日蓮聖人辻説法阯の石碑(小町)

日蓮聖人辻説法之阯と記した石碑。 前日紹介したところに建っている。 日蓮が鎌倉にきて、日々人通りの多い場所を選び、路傍に立ちその教えを広めた。その一つの場所がここであった。

畠山重忠の屋敷跡(雪ノ下)

流鏑馬の走り抜ける道、源平池と国宝館の間の道を八幡宮に向かって右に通り抜けて境内から出たところの正面にこの石碑が見える。 平家に味方した畠山重忠(はたけやましげただ)は後、頼朝の家来となった。 頼朝の娘の病のために当時の名医丹波時長(たんば…

今宮の石碑

今宮は新宮とも称する。この石碑には今宮が建てられた経緯が記されている。 この石碑は今宮の赤い鳥居を超え、境内の右手に建てられている。 この石碑は昭和4年に建てられたものなので文字もやや読みづらくなっている。

二十五坊旧跡(雪ノ下)

2009−05−29で紹介した古都保存法発祥の地付近は鶴岡八幡宮に仕える供僧(ぐそう)たちが住んだ、二十五坊(院)跡。このあたりは御谷(おやつ)とも呼ばれた。 この石碑は県立近代美術館別館の前の分かれ道のあたりに建っている。 源頼朝によって二…

日蓮上人草庵阯

大町の安国論寺の山門前にある日蓮上人草庵阯の石碑。 書いてある内容は、 建長五年日蓮上人房州小湊ヨリ来リ此地ニ小庵ヲ営ミ始メテ法華経ノ首題ヲ唱ヘ正嘉元年ヨリ文應元年ニ及ビ巌窟内ニ籠リ立正安国論一巻ヲ編述セシハ即チ此所ナリト云フ。

下馬の石碑(大町)

鎌倉駅の東口から若宮大路を段蔓(だんかずら)の反対方向(海の方向)に向かって進み横須賀線のガード下を過ぎて間もなく大きな交差点がある。長谷方面から名越(なごえ)に向かう大町大路と若宮大路とが交差するところだ。 このあたりを下馬という。 鎌倉…

新井白石の碑(龍宝寺)

龍宝寺の左手に玉縄幼稚園があり、そのすぐ先の左手に細い道がある。その先に江戸時代の朱子学者である新井白石(あらいはくせき)の碑がある。 石碑に書かれている文字は現在は全く読めません。同じく朱子学者であった室鳩巣(むろきゅうそう)の書いた文の…

玉縄城址(城廻ー清泉女学院)

この石碑は清泉女学院の敷地内にあるため、普段は入れないところ。 今回は「玉縄城址周辺史跡めぐり」に参加して普段は入れないところを写真に収めることができた。 清泉女学院の正門前の右脇にこの石碑がある。フェンスの奥にあるため、普段は近づけない。 …

鎌倉山記(鎌倉山)

鎌倉山ロータリー方面から来ると檑亭(らいてい)のすぐ手前に大きな石碑が見えてくる。「鎌倉山記」と書かれている。 碑文には鎌倉山の由来が記されている。 「天慶(てんぎょう)の乱に平貞盛(たいらのさだもり)が平将門(まさかど)を夷滅してより平氏…

聖福寺跡(稲村ケ崎)

江ノ電の稲村が崎駅から山に向かって真っ直ぐな道が南北に走っている。 その先は住宅地に行き着く。その住宅地は稲村ケ崎から七里ガ浜東および七里ガ浜に続く大きな住宅地、その住宅地のほぼ北東部に着く。突き当たるまで進み、左に曲がると正福寺公園がある…

コッホ博士の碑(稲村ケ崎)

ドイツの医学者で近代細菌学の祖と言われるコッホ博士、ローベルト・コッホ。 結核菌、コレラ菌、ツベルクリンの発見者、また北里柴三郎の師でもある。 北里博士の招きで鎌倉極楽寺を訪れた記念碑。

稲村ガ崎の石碑

稲村ガ崎の海浜公園の中に建つ石碑。 書いてある内容の概略は 新田義貞がこの岬を廻って鎌倉に進入しようとし、金装の刀を海に投じて潮の退くことを海神に祈ったというのはこの処だ。 といった内容が刻まれている。

道路記念碑(稲村ケ崎)

稲村ガ崎の公園の反対側(東)に当たるところ、ここの草むらに記念碑が建っている。なんとも難しい文字を使っているのでよく分からないが「道路開○記念之碑」と書かれている。○の部分はよく分からない、本分の内容も痛みがひどくて読み取れない。新田義貞が…

古戦場の石碑(稲村ケ崎)

新田義貞の鎌倉攻めの激戦地はいくつかあるが、ここもその一つ。それを示す石碑。 十一人塚の石碑、大館宗氏の墓、そしてこの石碑がこの一画にある。

十一人塚(稲村ケ崎)

日蓮の袈裟懸けの松をさらに海に向かって進み再び江ノ電の踏切を横切る、まもなく左の角の一画に十一人塚がある。 新田軍の大将大館次郎宗氏(おおだてじろうむねうじ)が極楽寺坂の切り通しから鎌倉を攻めた。北条方の本間山城左衛門(ほんまやましろざえも…

義経宿陣之趾(満福寺)

義経の鎌倉入りを頼朝が認めなかったため、義経はここ満福寺に留まった。 そのことを記した史跡碑「義経宿陣之趾」。 ここには、弁慶筆と伝えられる「腰越状」の下書きや弁慶が用いたといわれる椀や錫杖(しゃくじょう)などがある。

日蓮祈雨の石碑(七里ガ浜)

七里ガ浜の海岸に沿って走る湘南道路に行合橋がある、そこを海と反対方向に真っ直ぐ進むと右はやや上り坂、左はやや狭い道に分かれる。左に進みしばらく行くと行合川を超え左に曲がる道がある。そこを左に進むとこの石碑が建っている。 1271年(文永8年…

玉縄城址石碑(城廻)

大船駅西口から藤沢行きのバスで「植木」のバス停を降り、右手の高い茂った方向を目指して進む道が信号まで戻るとある。 かつては城の見張り陣屋のあったところ。陣屋坂と呼ばれる坂を上る。坂をほぼ上りきったあたりで左にマンションへの道があるがそこを過…

玉縄首塚の石碑(岡本)

昨日紹介した玉縄首塚の由来を説明した石碑。昨日の写真の右側に見える石碑をアップしたもの。 後ろの樹木は榎。これを甘粕榎とも言います。またこの塚を甘粕塚とも言います。甘粕氏もこの戦いで死にました。 戦いの後、玉縄城主・北条氏時は味方の首と敵の…

歌の橋(二階堂)

関取場跡を過ぎてさらに200mほど進むと小さな橋があります。 鎌倉十橋の一つで直ぐそばに石碑が立っています。 渋川形部六郎兼守(しぶかわぎょうぶろくろうかねもり)が謀反の罪で死刑にされそうになったとき、和歌十首に自分の無実を荏柄天神に訴えた。…

関取場跡(雪ノ下)

お地蔵様から岐れ道に戻り、右手の広い道を少し進むと左に「関取場跡」の石碑がある。 戦国時代、小田原城主の北条氏康(うじやす)が関所をもうけ、ここを通る商人やお参りの人から、関銭(交通税)をとり、荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)の社殿を造る費…

筋替橋(雪ノ下)

筋替橋(すじかえばし)の石碑。 筋違橋とも書く、また石碑の最後の2行に渡り書かれているように「須地賀江橋」と書かれた書もある。 鶴岡八幡宮の前を右に真っすぐ進むと突き当たりに宝戒寺がある、宝戒寺から左(北方向)に約100M、また突き当たった…