足利尊氏の墓(山ノ内)

山ノ内にある臨済宗の宝亀山・長寿禅寺の中にある、足利尊氏の墓とされる供養塔。 この寺院は常時見学できるわけではない。 訪れるには、すでに顔を出している筍(たけのこ)、シャガ、ムラサキ花菜、等が見られるこの季節は最適かも知れない。

百八やぐら(二階堂)

二階堂の覚園寺(かくおんじ)の裏山にある百八やぐらのうちのひとつ。 ここに行くにはハイキングコースを進むことになる。 一番楽なのは、大船駅から今泉方面行きのバスで半蔵坊下で降りて今泉台六丁目公園まで歩き、その中にあるハイキングコースを進むの…

離山富士見地蔵尊(大船)

鎌倉芸術館に向かって、右(南)方向にしばらく進むと、道路の右側にこの離山富士見地蔵尊がある。 離山(はなれやま)とはこの近辺の地名である。写真のようにほんの小さな場所を占めているだけのもの。ほとんど気にせず通り過ぎてしまいそうだ。

山蒼稲荷神社(大船)

大船駅から鎌倉女子大(元の松竹撮影所)に向かって進む、その女子大の手前には鎌倉芸術館やイトーヨーカドーがある。鎌倉女子大に向かって手前二つ目の信号を渡ったあたりにこの神社、山蒼稲荷神社がある。 商店街の脇にある。横切るには都合がいいこともあ…

アカゲラ

アカゲラと思われる鳥が現れた。 はっきり見えないが、頭の天辺が赤いのでアカゲラだと思う。 時々キツツキの音は聞くが何の種類かははっきりしない。コゲラと思われる小さな鳥が木をつついているのは見たこともある。写真には撮れなかった。 今回も写真には…

源頼朝像(梶原)

源氏山公園の中にある源頼朝像。 鎌倉の歴史はこの源頼朝が始まりであることは確かだ。 しかし、頼朝の像は多分ここにしかない。源頼朝の墓にも像はなかったと思う。 この源氏山の小高い公園から降りる方向により、化粧坂(けわいざか)切通し、銭洗い弁天、…

日野俊基の墓(梶原)

後醍醐天皇の朝臣である日野俊基の墓は、葛原ケ岡神社と源氏山公園の間にある。 ここが、俊基の終焉の地である。 近くには石碑も建っている。 後醍醐天皇の倒幕計画に加わり、一度は処刑を免れたが、再度、倒幕計画が発覚し、源頼朝に捕えられこの地で最期を…

葛原ケ岡神社(山ノ内)

瓜ケ谷やぐらからそのまま獣道みたいな道を南に進むと葛原ケ岡(くずはらがおか)神社がある。 ここは、源氏山公園の最北端に当たるため、ここまで足を運ぶ人は少ない。 日野俊基(ひのとしもと)が祀られている。 後醍醐天皇の朝臣である日野俊基は、後醍醐…

瓜ケ谷やぐら(山ノ内)

北鎌倉から梶原に向かう道をそのまま進むと、右手に竹藪が見える。 その横にわずかな道とも空き地ともつかないところがある。 車が止められる程度のスペースだが、その先に獣道とも田んぼのあぜ道とも思えるような道があり、そのまま進むと (東)瓜ケ谷(うり…

延命地蔵(山ノ内)

山仲神社の左を少し進むと車の通れる広さの道に出る。 そこを左、南方向に進み、しばらく進むと右手に延命地蔵がある。 民家の脇にある、個人宅の駐車場のようなところを抜けるとその先にある。

山仲神社(山ノ内)

しばらく取り込んでいたため、このブログも中断したままだったが、久しぶりに歩き回ったので少しその記録を記すことにする。 北鎌倉駅前の信号から少し大船方面に進むと左手に細い道がある。 その道を100mほど進むとこの神社がある。 山仲神社と言うらし…

土佐坊昌俊邸址(小町)

日蓮上人辻説法址の道をまっすぐ鶴岡八幡宮方面に小町大路を進み、宝戒寺の手前左にこの石碑がある。 義経を許さなかった頼朝が義経を追討を決意し、討伐の任命を多くのものは辞退したが、進んで引き受けたとされる土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)がこ…

若宮大路幕府旧跡(小町)

宇津宮稲荷から小道を八幡宮の方向に300メートルほど進むと、「若宮大路幕府跡」の石碑がある。 若宮大路幕府は親王屋敷とも呼ばれ、4代将軍藤原頼経の1236年から9代将軍守邦(もりくに)親王の1333年の幕府滅亡まで政治が行われた所。 しかし…

宇津宮辻子幕府旧跡(小町)

二の鳥居から八幡宮の方に300メートルほど進み、右の鎌倉彫会館脇の小道を進むと宇津宮稲荷がありその隣に石碑がある。 尼将軍政子が亡くなった時、藤原頼経(よりつね)が1226年から1236年まで征治を行った所で古瀬戸や常滑焼の壺の破片などが多…

東御門(雪ノ下)

東御門(ひがしみかど)は大蔵幕府の東の門のあった所とされる。 この石碑は雪ノ下にあるが、二階堂との堺に近いところにある。 この北にやぐらがあり、たくさんの五輪塔があった、 それらを整理して一か所に集めたのが東御門やぐらであるが、 現在は民家の…

西御門(雪ノ下)

鶴岡八幡宮の東にある横浜国立大学の付属小学校の東脇にこの石碑がある。 西御門(にしみかど)は地名にもなっているが、この石碑は雪ノ下というところにある。西御門という住所はこの少し北にある。 大蔵幕府の西の門があった所。

大蔵幕府旧跡(雪ノ下)

鶴岡八幡宮の境内を抜け東側の清泉小学校のあたりが大倉(蔵)幕府の中心地であったといわれる。 源頼朝が1180年に鎌倉に入って寝殿造の屋敷をつくり、ここに侍所(さむらいどころ)、公文所(くもんじょ)、問注所(もんちゅうじょ)などの役所をつくっ…

八雲神社(西御門)

来迎寺のすぐ左手にあるのが八雲神社。 祭神は乱暴で天照大神が怒って天の岩戸に隠れたり、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したとして有名な須佐男命(スサノウノミコト)。

太平寺跡(西御門)

来迎寺の脇にこの石碑が建っている。 源頼朝の命を助けた池禅尼(いけぜんに)の姪を開山として建てたと伝えられる太平寺という尼寺がこのあたりにありました。 本尊は安房の里見義弘が鎌倉に攻め込んだ際、奪って安房に持ち去ったが、今は鎌倉に戻り、 現在…

来迎寺(西御門)

来迎寺(らいこうじ)は西御門(にしみかど)にある横浜国大の付属校の東側をフェンスに沿って北に進み、2−300m先を右に曲がったところにある。時宗を開いた一遍上人が建てたといわれている。西御門にあったいくつかの寺で残っているのはここだけと言わ…

紅葉山やぐら(小町)

紅葉山(もみじやま)やぐらはほぼ宝戒寺の裏手にある。 昭和10年(1935)に発見され、「海蔵寺十六井」と全く同じものが出土されており、時代考証からも北条執権ゆかりの納骨と言われています。 この地域は鎌倉幕府の実力者・旧跡「北条執権邸」内にあり…

六方の井(大町)

六方の井の由来はわからないが、大町の山際にある井戸で個人宅にあるため行き方は省略する。 昔から水の少ない鎌倉でも水が枯れたことがないそうだ。 大きさは縦3.6メートル、横4.5メートル。 この小さな池のような井戸は比企ケ谷(ひきがやつ)の蛇形…

北条時政邸跡(大町-浄明寺)

北条時政邸跡と伝えられるあたり。 ここも唐糸やぐら、日月やぐらの近くにある。 この辺りは大町なのか、浄明寺なのか正確な位置は地図に示されていないのでよくわからない。

唐糸やぐら(大町-浄明寺)

唐糸(からいと)やぐらは釈迦堂口切通しの上を横切るように通る山道にそってある。 近くに建っている説明によると: 木曽義仲(きそ よしなか)の家来の娘唐糸は、ひそかに頼朝の様子を探るため仕えていましたが、頼朝が家臣と義仲を討つ相談をしているのを…

日月やぐら(大町-浄明寺)

日月(じつげつ)やぐらは唐糸やぐら等と同じように釈迦堂口切通しのすぐ上にあるやぐらだ。 画面には日を思わせる丸い穴がありその左の壁には三日月を思わせる穴があるので、日月やぐらと呼ばれる。

崩落した釈迦堂口切通し(大町-浄明寺)

釈迦堂口切通しが崩落しました。 昨年4月4日ここで撮った写真は公開していますが、それと比べてみてください。 この洞門は鎌倉の景色として独特の雰囲気を持ったところです。 私の好きな鎌倉の景色の一つでありましたが、残念です。

名越の切通し

名越(なごえ)の切り通しは逗子と鎌倉の境に近いトンネルのあたりにある、鎌倉七切り通しの一つだ。 当時鎌倉は前は海、ほかの三方は山に囲まれたところで防衛上非常に適した地形を利用した。 鎌倉に入るには、人一人しか通れない狭い道、さらに置き石など…

ハンカチの木

ゴールデンウィークもいよいよ終わりに近づいた。 この時期に咲くハンカチの木。 白いハンカチに見えるかどうかは見る人によるのでしょう。 花の咲いていないときはただの木にしか見えない。

白花タンポポ

白花タンポポは聞いたことはあったが、見たのは初めてだ。 綿帽子の左に確かに白い花のタンポポが咲いている。

(アフリカ喜望峰の)ヒルムシロ

アフリカ喜望峰のヒルムシロ。 日本にあるヒルムシロとは全く違うようだ。 アフリカ喜望峰に見られるのだろうか? ほとんど聞いたことのない植物の一つだ。