2008-10-01から1ヶ月間の記事一覧

聖福寺跡(稲村ケ崎)

江ノ電の稲村が崎駅から山に向かって真っ直ぐな道が南北に走っている。 その先は住宅地に行き着く。その住宅地は稲村ケ崎から七里ガ浜東および七里ガ浜に続く大きな住宅地、その住宅地のほぼ北東部に着く。突き当たるまで進み、左に曲がると正福寺公園がある…

西田幾多郎の記念歌碑(稲村ケ崎)

稲村ケ崎の海浜公園から江ノ島がよく見える。 その江ノ島方向に海岸線を歩くこと約600〜700m、海を背にして奇妙なものが建っている。これが哲学者、西田幾多郎の歌碑。亡くなるまで晩年をこの稲村ケ崎で過ごした。 七里ガ浜 夕日漂ふ 波の上に 伊豆の…

コッホ博士の碑(稲村ケ崎)

ドイツの医学者で近代細菌学の祖と言われるコッホ博士、ローベルト・コッホ。 結核菌、コレラ菌、ツベルクリンの発見者、また北里柴三郎の師でもある。 北里博士の招きで鎌倉極楽寺を訪れた記念碑。

ボート遭難慰霊碑(稲村ケ崎)

♪♪ 真白き富士の根、緑の江ノ島 ♪♪ の歌詞で有名な逗子開成中学校ボートの遭難慰霊碑。 生徒12人が遭難したが人々の涙を誘ったのは、小学生の弟をしっかり抱きしめたまま引き上げられた仲良し兄弟の遺体。 これがブロンズ像として建てられた。

明治天皇御製の碑(稲村ガ崎)

稲村ガ崎の海浜公園にある碑。 明治天皇御製。 新田義貞 「投げ入れし 剣の光あらわれて 千尋の海もくがとなりぬる」 と書かれている。 新田義貞が刀を海に投じ潮が引くのを祈り、稲村ケ崎から鎌倉を攻めたという史実を歌ったもの。 唱歌 鎌倉 には次のよう…

史蹟(稲村ガ崎)

鎌倉稲村ケ崎の海浜公園の中にある史蹟。 先日の石碑とは別に建っている。 「史蹟稲村ケ崎新田義貞徒渉傳説地」と書かれている。 右後方に見える碑は明治天皇御製の碑。

稲村ガ崎の石碑

稲村ガ崎の海浜公園の中に建つ石碑。 書いてある内容の概略は 新田義貞がこの岬を廻って鎌倉に進入しようとし、金装の刀を海に投じて潮の退くことを海神に祈ったというのはこの処だ。 といった内容が刻まれている。

彼岸花(曼珠沙華)の葉

花は葉を知らず、葉は花を知らずといわれるように、彼岸花(曼珠沙華)の花が咲いているときは葉っぱがない、葉っぱのあるときは花がない。 ここでは花が終わって間もなく葉が出てきたところ。花の終わった跡が残っているときの貴重なわずかなチャンスだ。

道路記念碑(稲村ケ崎)

稲村ガ崎の公園の反対側(東)に当たるところ、ここの草むらに記念碑が建っている。なんとも難しい文字を使っているのでよく分からないが「道路開○記念之碑」と書かれている。○の部分はよく分からない、本分の内容も痛みがひどくて読み取れない。新田義貞が…

古戦場の石碑(稲村ケ崎)

新田義貞の鎌倉攻めの激戦地はいくつかあるが、ここもその一つ。それを示す石碑。 十一人塚の石碑、大館宗氏の墓、そしてこの石碑がこの一画にある。

大館次郎宗氏の墓(稲村ケ崎)

十一人塚の一角にある新田義貞軍の大館宗氏の墓。大館又次郎とあるがこれは大館次郎のまちがいだそうだ。 前回の写真は石碑であるが、これが十一人塚になる。塚は墓のこと。

十一人塚(稲村ケ崎)

日蓮の袈裟懸けの松をさらに海に向かって進み再び江ノ電の踏切を横切る、まもなく左の角の一画に十一人塚がある。 新田軍の大将大館次郎宗氏(おおだてじろうむねうじ)が極楽寺坂の切り通しから鎌倉を攻めた。北条方の本間山城左衛門(ほんまやましろざえも…

コキア(ホウキグサ)

通常箒草(ホウキグサ)と呼ばれる、別名コキア。このまま箒(ほうき)として使えそうなのでホウキグサと呼ばれるが、ホウキギともいう。 秋に紅葉するときれいだ。 種は「とんぶり」と呼ばれ、直径1〜2mmで黒緑色で光沢がある、形、色がキャビアに似てい…

袈裟かけの松(稲村ケ崎)

極楽寺から線路に沿って稲村ガ崎方面にしばらく進み、踏み切りを超えると右手に写真のような碑が見える。 日蓮が竜ノ口(たつのくち)の刑場に連れて行かれるとき「袈裟まで血に染めるのは恐れ多い」と袈裟を脱ぎそこにあった松の枝に掛けて行ったということ…

報国寺(浄明寺)

鎌倉方面から浄明寺のバス停の手前に「報国寺入口」の信号のところに華の橋がある、そこを渡り進むと「竹寺」として有名な報国寺(ほうこくじ)がある。臨済宗の功臣山建忠報国禅寺(こうしんざんけんちゅうほうこくぜんじ)である。 きれいに手入れされた竹…

浄妙寺本堂

浄妙寺本堂。ここには釈迦如来像が本尊としてまつられ、阿弥陀如来、淡島明神像も祭られているそうです。 ここには藤原鎌足の像等々もあるようだ。 足利貞氏の墓と伝えられる墓塔も見られる。

浄妙寺(浄明寺)

鎌倉駅からバスに乗り「浄明寺」というバス停で降りる。 非常にややこしい話だが、寺の名前は浄妙寺(じょうみょうじ)そして地名は同じ発音で浄明寺(じょうみょうじ)。よく見ると字が少し違う。 寺の名前をそのまま使うのは恐れ多いということで字を変え…

義経公手洗いの井戸(満福寺)

この寺には硯(すずり)の井戸とは別に義経公手洗いの井戸もある。 義経公に関してはこの寺には襖絵や鎌倉彫で義経の物語を描かれたものなどもたくさんある。

硯の池(満福寺)

弁慶が「腰越状」の下書きをするために水を汲んだという「硯(すずり)の池」。 左手のトンネルは境内の霊園に到る。 「腰越状」に関しては鎌倉幕府の公文書とも言うべき「吾妻鏡」や語り物の「平家物語」や「義経記(ぎけいき)」にも記されている。

義経公慰霊碑(満福寺)

中央に「義経公慰霊碑」があり、左右にそれぞれ「弁慶の腰掛石」「弁慶の手玉石」がある。 義経の鎌倉入りを頼朝が最後まで許さず、京に向かった義経の一行はその後、追われて奥州の藤原秀衡(ひでひら)のもとにかくまわれたが、秀衡の死後、秀衡の子泰衡(…

義経宿陣之趾(満福寺)

義経の鎌倉入りを頼朝が認めなかったため、義経はここ満福寺に留まった。 そのことを記した史跡碑「義経宿陣之趾」。 ここには、弁慶筆と伝えられる「腰越状」の下書きや弁慶が用いたといわれる椀や錫杖(しゃくじょう)などがある。

満福寺(腰越)

江ノ電の腰越駅のすぐ山側(北側)にあるのが、真言宗の満福寺、龍護山医王院満福寺(りゅうごさんいおういんまんぷくじ)。 平氏を壇ノ浦で滅ぼして京より敵将平宗盛(たいらむねもり)父子を護送し、鎌倉に凱旋した義経は腰越に足留めされ鎌倉に入ることが…